Stanford CIS

Professor Wendy Gordon's Article (3)

By Yuko Noguchi on

法と経済学の分野で活躍しているGordon教授の論文として最後にご紹介するのは、価格差別(Price discrimination)に関する論文です。

価格差別というのは、ミクロ経済学で、市場での独占(Monopoly)、または独占にまで至らなくともある程度の市場支配力(Market Power)がある場合に、商品の供給者が取ることのできる販売方法で、同じまたは類似の財(商品)について、購買者の支払能力に応じて異なる価格を課すことです。

この価格差別は、しばしば、社会にとってプラスも多いのだと主張されます。具体例でよく挙げられる例として、ソフトウェアを販売する例が挙げられます。ソフトウェアの販売にあたり、全員に中間的な価格を一律に課すよりも、支払能力の高い法人利用者には高めの価格を、個人利用者には低めの価格を、更に学生にはもっと低い価格を、課したほうが、結果として、個人や学生は低い価格で利用できることになり、全体に購入される商品の数も増えて、消費者も生産者もハッピーになる、というのです。

たとえば、ハーバード・ロー・スクールのTerry Fisher教授は、この記事のように、基本的に価格差別論は市場にとってプラスだと主張していますし、シュリンク・ラップ契約の有効性に関する米国の判例として著名なProCD判決(ProCD, Inc v. Zeidenberg, 86 F.3d 1447 (7th Cir. 1996)、解説ページとして、例えばこちら)でも、シュリンクラップ契約の効力を維持する根拠のひとつとして、価格差別が社会にとっていいことであり、その価格差別を維持するためには使用目的を限定したり転売や転用を禁止しているシュリンクラップ契約が有効であることが必要だから、という点を挙げています。

さて、上記の主張、どこかに落とし穴は無いのか?
これを検討したのが、Gordon教授の以下の論文です。

"Intellectual Property as Price Discrimination: Implications for Contract" (Symposium on the Internet and Legal Theory), 73 Chicago-Kent Law Review 1367.

この論文では、価格差別が社会にとってプラスだという主張の際にしばしば見落とされがちな以下の点を指摘して、上記ProCD事件の判決その他の主張を批判しています。

つまり、価格差別が「良い」というとき、「何と比較して」良いのか、という点を視野に入れずに議論すると、間違った結論を出すことになる、というのです。価格差別は、市場支配力のある状態下での単一価格での販売と、価格差別化の販売を比較した時にのみ、「良い」と言えるわけであって、「自由競争」と比較してまで、「市場支配力の在る状態での価格差別」が良いとはいえない、というのです。

詳しく見てみましょう。

価格差別は、市場支配力のある企業であることが前提です。つまり、価格差別のためには、この企業は、自分の好きな価格を自由に設定できなければなりません。普通、自由競争の中にある企業は、需要曲線と供給曲線が交わったところで決定される市場の価格に受動的に従うしかないわけですから、自分で価格を設定できるには、自由競争ではなくて市場支配力が必要なわけです。

しかし、市場支配力がある、極端なケースでは市場を独占している状態は、一般にあまり良いこととは言われません。公正取引委員会が、日本でもこの点に留意した行政的な取締りを行っていますね。これは、市場支配力があると、自由競争に比べて価格自体が全般に高くなり、その分、供給される商品の量も少なくなるからです。(その他にも、市場支配力がある場合に問題となる行動として、抱合せ販売や価格拘束など、色々ありますが、ここでは関係ないので省略します。)

したがって、「自由競争」と「市場支配力のある状態」はどちらが良いか、といえば、一般には、自由競争の方がいいのですね。そして、市場支配力のある状態の中で、単一価格よりは価格差別の方がよい。

ところが、ProCD判決で問題になっていた商品はデータベース、しかもあまり編纂に創作性の無い、データの集まり(実際には電話帳)の事例なのです。したがって、著作権法では保護されない可能性も高く、そうであれば、原則は自由競争のはず。それなのに、「単一価格」より「価格差別」の方が良い、というのは、比較対象を微妙にすり違えた議論ではないのか、というのがGordon教授の指摘です。このケースであれば、実際には、比較すべきは「自由競争下での単一価格」と「市場支配力下の価格差別」であり、その場合に、必ず価格差別のほうが良い、という理由はどこにも無いのです。むしろ、一般には、独占に伴う色んな弊害も考えると、「市場支配力下の価格差別」は簡単には支持できない理由も多々あるはずで、より慎重な検討なしには結論は出ないはずなのです。

Gordon教授は、このように、「本来なら自由」なものについて、「価格差別が良いから、それを可能にするために市場での独占を認める」というのは、本末転倒の議論だ、と指摘していて、大変勉強になります。その意味で、ProCD判決でも、「価格差別を可能にするための市場支配力を、シュリンクラップ契約を通じて認める」という理屈は、アプローチが違うのではないか、と批判しています。

実は、著作権の議論をするとき、このような本末転倒に近い議論は、しばしばあるのですね。その典型が、たとえば、アクセスに対する議論です。技術的保護手段(一般にDigital Rights Managementと言われる技術)を使うと、これまでは自由だったアクセスを独占すること可能になってきます。しかし、事実上独占が可能だ、ということと、それを法的にも保護すべきだ、というのは、次元の違う話ですね。それなのに、「事実上の独占が可能だ、そして、その独占によって価格差別が可能になる、価格差別はいいことだから、それを支持するために法的にも保護すべきだ」という理屈はしばしば見受けられます。もちろん、アクセスについても独占力を行使したい権利者にとっては、いいことかもしれません。でも、社会一般にとって、特に、情報を見聞きする一般市民の人々にとって、元来自由であったものを、価格差別のために独占させるのがいいことが、というのは決して筋の通った話ではない訳です。著作権法には、既に、複製権・頒布権・公衆送信権、その他違法な行為を取り締まるためのツールが既に沢山用意されていて、それに加えてアクセスまでを著作権者に独占させることの「付加価値」と、それを独占させることによる弊害とを議論して決めるべき問題であって、「価格差別が出来るから」許される、という問題ではないのです。

この点は、しばしば見落とされている点です。Gordon教授の説明で、私も胸の中のもやもやが非常にすっきりしました。ということで、お勧めの論文です。

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