お久しぶりです。
このところ、引越し作業でばたばたしていた野口です。
そうです、ついに9月の頭に日本に戻ることになりました…。
といっても、学位は12月までお預けなのですが。
さて、まだ米国には居りますが、引越し作業はほぼひと段落して。
最近、いろんな方とお話をして、日米比較論、文化論を話していると、
「面白いですね~。」と言っていただくことがあります。
米国生活の長かった故か、法律分野でも法律以外の分野でも、
無意識にもそれなりに日米比較をしているらしいのですね。
それを、忘れないうちに、ぼちぼちUpしてみようかと思いました。
余り、お堅い話ばかりでもなんですし。
というより、やっぱり、ちょっとした人の文化っていうものが、
法律にも影響してるんだよなぁと、最近痛感したりもするからです。
(ちょっと、こじつけっぽいですが。)
Lessig教授も、Codeの中で、
「Social Norm」(=人々の規範意識)が規制要素のひとつだと述べていますが、
特に、著作権の話をしていると、それを時々実感するのです。
その典型的な例が、「権利主張の強さ」です。
日本は訴訟を含めた権利主張が米国より弱い、というのは一般論としてよく聞きます。
これについては、他に本格的な研究が色々あるので、コメントは差し控えますが。
なるほど~と思ったことのひとつに、「消費者の権利主張」があります。
この間、とある電機メーカーの技術分野の偉い方と話をしていたら、
消費者の権利意識が日米で本当に違う、という話をされていました。
ある電子機器で、コピー回数を制限する機能を導入したときのこと。
日本では、権利者からも、消費者からも、少なくとも目に見える抗議はなかった。
もちろん、売れ行きがいい、悪いという意味での反応はあるわけだが。
これに対して、米国では、製品を導入した直後から、
消費者からの抗議電話が殺到。曰く、「どうしてこんな制限がついているんだ!」
その裏側から、消費者の「コピーは自分の権利」という気持ちが伝わってくる。
どちらがいい、悪い、ではなく、本当に違うんだなぁと実感した。
という、お話だったのですが、これが、実は立法にもつながっていたりして?
と思うのは私だけでしょうか。
技術的保護手段の回避する法律が日本にも米国にもありますが、
その厳しさを比べると、米国のほうが格段に締め付けが厳しいです。
その最たるものが、「権利制限規定に該当する利用のための回避」が許されるか?です。
ご存知、日本の技術的保護手段を保護する著作権法では、
この点は特に明確には規定していないのですが、
少なくとも、立法過程参画者によるコンメンタールによると、
権利制限規定で保護される利用のための回避は、
私的複製(30条)を除いて、適法だ、と述べられています。
一方、米国のDMCAでは、詳細な例外規定が幾つかあり、
その例外規定に該当する場合を除いては、Fair Use目的の回避であっても
正当化されないと、DeCSS事件控訴審判決が名言していますね。
これに対して、当然、「Fair Use目的の回避を正当化しよう」という議論は
しばしばなされます。これに対して一番に出る反応が、
「そんなことしたら、消費者は何をし出すかわからない!」という不信感です。
権利者が猜疑的過ぎるのか?消費者の権利意識が本当に強すぎるのか?
その両方なのかもしれませんが。いずれにしても、
立法論の是非が、こうした規範意識と密接に結びついている一例だな、と
実感する次第です。
と、取り留めない呟きでした。
続いて、もうひとつ、今度は学生の違いを書いてみたいと思います。