Stanford CIS

students at law school

By Yuko Noguchi on

今回は、法律と全く外れて、学生の意識、について。

こちらのLaw schoolの学生を観察していて、日本の学生と違うなぁと痛感することのひとつに、「履歴書」があります。

履歴書の書き方が違う!?  
いえ、そうではなくて。
米国の学生は(そして、おそらく社会人も)、良くも悪くも、自分の履歴書を何時も「手入れ」しながら生活している、という感じが時々するんです。

たとえば、サークル活動。
私が大学生だったころ、自分も周りの学生も、サークル活動を選ぶ理由の最大のものは「活動内容が好きだから」「仲間が居るから」が多かったような気がします。
もちろん、たまには「あのサークルは先輩の就職のコネが強いらしいから」といった現実派も居たには居たのですが、むしろ少数派だったような気がします。

それに比べて、米国のLaw schoolの学生は、サークル活動をしたり、カンファレンスの手伝いをしたり、といった授業以外の活動をするときに、「自分の将来希望する職種に就職活動をするときに、こういう活動に参加していたと履歴書に書けるとプラスになりそうだから」というのが、全部ではないにせよ、かなり大きなウェイトを締めているような気がするときがあります。
これは、多分、Law schoolだけではなくて、米国の学校では、もっと若い頃からそうなのかもしれません。なにしろ、幼稚園にまで、「クラスの紛争解決委員会」なるものがあって、その委員になる幼稚園生がいる、という話まであるくらいですから。
そうして、それが「課外活動」として、入試の時に評価される、という話は日本でも比較的有名だと思います。

こうしたカルチャーが、学生に否応なく目的意識、目標意識を持たせる、という面はあるだろうな、と思います。
自分が何をしたいのか、何をすれば将来につながるのか、と何時も考えざるを得ないからです。
また、採用する企業の側もそれを見ている気がします。

一方、弊害は、というと、たまに、やる気はないのに肩書きだけが欲しい人、というのが存在しているような気がすることです。
つまり、「こういう役職をしていた」と書くと履歴書で格好がいい、という理由で名乗り出たものの、それが好きなわけではないので、必要最小限のことしかしない、という感じの人が時々居るような気がするんですね。
(私の勘違いかもしれませんが。)

いずれにしても、留学生と話していて、特に日本人以外の人に時折指摘されること。
日本人は、優秀で才能もあって器用なのに、何でやる気がないんだ。
あるいは、もっとやれば出来るのに、なんであんな引っ込み思案なんだ。

う~ん。何でなんだろう、と思いつつ、時々、そんなことを私も感じます。
同じ日本人として、自分の国は大好きだから、そう言われると、なんだか悔しい。

やっぱり、今の生活に満足しているから、向上心が少ないのかな?とか。
でも、それだけではなく、日本の文化そのものが、
どちらかというと、謙譲の美徳とか、目立つことを嫌うとか、という面が
まだまだ根強いような気もします。

そして、そうした社会の文化の違いが、こうした学校での生活や就職の仕方なんかとも繋がっているような気がするんです。

たとえば、同じ位のスキルを持ったWebデザインが趣味の学生が居たとして。
学校のサークルのWebデザインのバイトをすることにしたとします。
米国人だと、まずは、サークル選びに当たって、出来れば有料なところ、そして学校外にも知られているサークルで、自分の興味のありそうな分野を扱っていて、Webの仕事を通じて今後の人脈もつなげそうなところ、という視点で仕事を探す気がします。
日本人だと、どうなんでしょうか。
自分の仲のいい友達の居るサークルとか、ゼミの教授に頼まれたから、とか、違うところにプライオリティがありそうです。

あと、もうひとつ、この二人の学生が違うだろうこと。
それは、自分のスキルをどうアピールするか、です。
たとえば、この二人が会社に面接に行きます。
米国人なら、自分のやった仕事が如何に役に立ったか、自分のスキルはどんなところが人より優れているか、そのサークルはどんなすごいサークルなのか、と目一杯アピールするような気がします。時には、ちょっぴり大げさ目に。
日本人だと、「学校のサークルのWebを手伝った位の経験ならありますけれど。まぁ、素人なりに頑張ってはいたのですが、本格的な仕事ではないので。」とか、思わず謙遜してしまう人、多いのではないでしょうか。

どちらがいい、悪い、ではなく、お国柄なのだと思うのですが。
そして、日本の中に居る限り、こうした日本人特有の思いやりや謙遜は、居心地の良いことも多いと思います。実際、米国では、時々「闘わなければ生活していけない」と思ったりしますし。

しかし、日本という枠の外に出るとき、こういう部分が損しているなぁと時々思うのです。
郷に入れば郷に従え、ではないですが、米国にいると、自己主張をしない人は存在感がない、といったようなことを時々感じます。
さらに言うと、最近、日本の中にある閉塞感にも、これが影響しているような気がするんですね。少しでも出来たことを、出来たと前向きに捉え、失敗しても次の糧にする、というほうが、失敗を恐れて何もチャレンジしない、という(時々日本に見られるような)方向性より、結局は、国なり企業なりを活性化するのではないでしょうか。

いずれにしても、こうした自己主張と自己アピールを常に視野に置いた教育(もしくは学校文化)のあり方が、前の記事の「権利意識」とも繋がっている、といったら、強引すぎるでしょうか。

そういえば、もうひとつ。
一時、米国を参考にした「ゆとり教育」なるものが日本でも謳われていましたが。
同じ「課外活動」に重点を置く、といっても、米国の実態と日本の「ゆとり教育」とでは全然実態が違いますよね。
中身を知らないで、形だけを輸入する、という間違いは、あまり繰り返さないようにしたいものです。

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